2月12日、叔父の葬儀が行われた。
母が介護生活になるまでは、子どものいない叔父叔母夫婦のことは、主に私が世話をしてきた。二人は有名企業が運営する高齢者施設の一般居室に住んでいた。けれど母がこうなってしまってからは、どうしても手が回らなくなった。幸い、年若い叔父が代わりに見てくれることになり、私はバトンタッチをした。
その頃、叔父は足腰が弱り、身体介助が必要な状態に。叔母の認知症も進み、「警察に物を盗まれた」「クローゼットから人が降りてきた」と真顔で話すようになっていた。本来なら同じ施設内の介護居室へ移れるはずだったが、満室でかなわず、同系列の別の介護施設へ移ったばかりだった。
介護施設へ移ってから、叔父は安心したのか、それとも絶望したのか、急速に衰えていった。施設内で頭から転倒し、9針を縫う怪我をして入院。入院直後は比較的元気で、食事もよく食べていたと聞く。施設の人たちは大騒ぎだったが、その時の私は事の重大さを理解していなかった。
ちょうど母が体調を崩した時期と重なっていたからだ。
Sちゃんからは「リハビリのため、あと数週間は入院する」と聞いていただけだった。
しかし、体調は良くなるどころか、みるみる痩せ、ほとんど食べなくなったという。
やせ衰えた体を前に、医師からは「老衰です」と告げられた。
そして、2月10日、叔父は亡くなった。
その時も私は母の入院対応に追われ、退院後の生活を整えることで精いっぱいだった。ほとんどをSちゃんに任せるしかなかった。私はなんとか告別式と火葬には立ち会うことができた。
葬儀場で叔父の顔を見た瞬間、涙があふれて止まらなかった。
認知症の叔母も、叔父の死は理解している様子だったが、どこか遠い世界にいるようで、現実を真正面から受け止めてはいないようにも見えた。
式は家族葬。私とSちゃん家族だけの、こじんまりとした葬儀だった。けれど、とてもよい式だった。縁起でもないが、母の時もこういう形がいいのかもしれない、とふと思ってしまうほどに。
葬儀というものは、故人のためというより、残された遺族のためのものなのだと思う。
遺族の負担になるものはなるべく排除し、気持ちに区切りをつけるための時間。
最初は一般的な式を予定していたそうだが、叔母が「そんなにお金をかける必要はない」と言ったという。Sちゃんから電話があり、どうするかと聞かれたが、生前から叔父自身も「豪華な式はいらない」と話していた。だから叔母の意見を尊重した。
今思えば、家族葬でよかった。
納棺のとき、叔父の好きだった
グレン・ミラー の「A列車で行こう」が流れた。
当時の男性には珍しく高身長で、映画スターのスカウトを受けたこともあるほどの美男子だった叔父。きれいに整えられた顔は、最期まで惚れ惚れするほどだった。
そして火葬場へ。
骨になった叔父を前に、現実が静かに胸に落ちてきた。
Sちゃんは、同居の孫が熱を出したとのことで、そのまま帰るという。
一瞬、「母親もいるのに孫の熱で帰るの?」と思ってしまった。けれど、ここ一週間、仕事も休み、付きっきりだったSちゃんのことを思えば、責める気持ちにはなれなかった。
私が叔母と一緒に、叔父の遺影と遺骨を持って介護施設へ戻る。
叔母の居室に、遺影と遺骨、戒名の書かれた位牌を置いた。
叔母は気持ちはしっかりしているが、体が悲鳴を上げているのか、朝から熱を出し、体中が痛いと言っていた。車いすでの出席だった。
これから、叔母は一人でこの縁もゆかりもない施設で暮らしていく。
本当なら、私が駆けつけ、そばにいるべきなのかもしれない。
でも母のことがある以上、もうそれはできない。
後ろ髪を引かれる思いで、16時半、施設を後にした。
葬儀の花を持って帰った。
母は葬儀に参加できなかったので・・

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