2026年4月26日
本日は母の葬儀。
喪主は私。参列者五名の、小さな家族葬だった。

祭壇は美しく飾られ、私が選んだ、若い頃から晩年までの母の写真が静かに映し出されている。
本当に小さなお葬式だったけれど、こうして母を送り出せたことに、私は少しだけ安堵していた。
うちは檀家のお寺がないため、宗派に合わせてお坊さんを派遣していただく形式だった。
葬儀と初七日をあわせて執り行う。
やって来たお坊さんは副住職とのことだったが、髪もふさふさで年齢も若く見え、どこか普段は会社員をしていそうな雰囲気の、いわゆる“生臭坊主”という印象だった。
けれど、ひとたびお経が始まると、その声は驚くほど芯があり、よく通り、とても心地よかった。
どうやらうちの宗派は、長く伸ばしながら唱える読経らしい。
その響きは静かに身体に染み込み、不謹慎ながら、少し眠ってしまいそうになるほど心が落ち着いた。
そして最後の「ラストレター」。
前日、葬儀社の方から10分ほど母についてのインタビューを受けていた。
その内容が会葬御礼の文章としてまとめられ、母の写真とともに映像で流された。
確かに話したのは私なのに、何度読み返しても涙が止まらない。
今こうして書いているだけでも、また涙が込み上げてくる。
出棺。
霊柩車に乗り込んだのは、二か月前に夫を亡くした、認知症の叔母だった。
外は朝から雨。
しかもその日はドリカムと嵐のイベントがあるらしく、市内はかなり混雑しているという。
火葬場まで、通常より時間がかかると言われていた。
雨は止むことなく降り続き、位牌には濡れないようビニールが掛けられた。
火葬場はとても混雑していて、どこか流れ作業のようにも感じられた。
私は最後まで涙を止めることができず、あの日、あの火葬場で一番泣いていたのは私だったかもしれない。
福岡市の火葬場には個室の待合室はなく、大きな食堂のような場所で待機する形式だった。
五人で、カツカレーや天丼、天ぷらそばを食べながら、お骨になるまでの時間を過ごした。
話題は自然と、認知症の叔母のことになる。
叔母は今、高級な介護施設で何不自由なく暮らしている。
けれど本人は、自由に外出できないことを「自由を奪われた」と感じ、自分は不幸だと言う。
自分が認知症で、何もわからなくなっているからこそ、なぜ好きにできないのか理解できないのだろう。
私は、母がどれほど一人で寂しい思いをしてきたか、叔母は十分幸せなのだと伝えた。
けれど、その言葉はあまり届かなかったように見えた。
きっと、この会話のことも、叔母は忘れてしまうのだろう。
そして、ついにお骨になった母と対面した。
「ついに、こんな姿になってしまった」
そう思った瞬間、不思議と涙は出なかった。
私はただ必死に骨を拾い続けた。
少しでも多く、母を家に連れて帰りたかったのだ。
骨壺に納められ、ようやく母は、長年暮らした自宅へ戻ってきた。
叔父家族が祭壇まで整えてくれて、部屋はきちんと“その場所”になっていた。
これから四十九日まで、母はまた家にいる。


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